YouTube佛教法話 北海道岩見澤市・幌向善光寺 ~北の寺からch~
「自分が正しい」から一歩離れる (ショート法話660)
- 影片類型
- 一般
- 發布日
- 2026年4月21日
- 觀看次數
- 214回
- 點讚數
- 25
- データ確認日時
- 2026年5月11日 06:32
動畫概要
北海道岩見澤市幌向 淨土宗西山禪林寺派「善光寺」 大久保瑞昭住職による短時間で聞けるショート法話です。 #佛教 #淨土宗 #西山派 #法話 #お經 #念佛 #北海道 #岩見澤 #幌向
※當・善光寺は、檀家さんより、年間、維持費として一萬圓、十夜法要への寄付金として五千圓~をいただいております。
※當・善光寺では、いったん檀家になり、それを辭める場合でも、他の多くの寺院と同樣に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※隨時、御朱印を承っています(要豫約)。
大きな災害や事件等が起こった時には、必ず「陰謀論」や「デマ」が擴散されますね。
そういう「陰謀論」や「デマ」を信じやすい人の特徴として、「自分の直感や認知能力への過信」があると言われています。
「自分が見たから絶對に本當だ」とか「自分はこう思うのだから本當だ」ということですね。
これは、多かれ少なかれ、誰にもあることですが、「自分は間違っているかもしれない」、「自分を信じ過ぎない」、「自分を小さくする」ということが大切なのですね。
私は、日々、檀家さんのお宅に月參りにお伺いしていて、そこのお宅の方々と接しています。
そういう方々は、非常に、謙虚な方が多い、というか、ほぼ、100%、謙虚な方々ばかりです。
そういう、私が接してる「檀家さん」という方々は、何もおじいさんおばあさんばかりではありません。
私のような年齡の方や、もっと若い、小さなお子さんがいらっしゃるような世代の方もいらっしゃいます。
そういう方々は、決して、私に、「ほんとうの佛教とは~」なんて話をしないのですね。
もちろん、經典を讀み、意味を理解することは大切なことです。
しかし、やはり「師」というか「先輩」というか「先達」を持つことは大切なのですね。
決して自分が作り出した、獨りよがりの考え方ではなく、長い時間をかけて、多くの人によって受け繼がれてきた「考え方」を學ぶことが、大切なのでしょうね。
その目的は、やはり、「自分を小さくする」、「自分を信じ過ぎない」「自分の意見を絶對だと思わない」ということだと思います。
私が接している檀家さんは、日々、お佛壇にお水を供え、お佛飯をお供えしています。
そうして、蝋燭を點け、お線香を焚き、みほとけや亡き人に手を合わせています。
その時間は、紛れもなく、「中心」が、あちら側、みほとけや亡き人に移っています。
しかし、我々は凡夫であり、煩惱を抱えていますから、すぐにまた、「中心」が自分に移ってきてしまいます。
そういう私たちにとって、日々、みほとけや亡き人に向かうことは、「中心」を自分から離し、「相手」へと移すトレーニングになっているのではないかと思います。
佛教の入り口は、三歸依です。
みほとけ、教え、教えを信じる集團に歸依することです。そこから、佛法の生活が始まるのです。
歸依というのは、「信じたよる」(『佛教語大辭典』中村元)という意味です。
私たちは、煩惱を持っていますから、どうしても、「自分」が中心になってしまうのです。
知らず知らずのうちに、氣が付くと「自分」を中心にしてしまうのです。
しかし、日々、私たちの外部にある、みほとけや亡き人を禮拜することで、「中心」を相手に渡し、この「自分」を小さくしていくのです。
「自分」を完全に無くすことはできませんが、「自分」を小さくして、みほとけや亡き人を中心に生きていく。
そのことで、人々を敬い、世界を感謝で眺め、至る所に敬意を見出すような、穩やかな人間性を培っていくのでしょうね。
Twitterはじめました https://twitter.com/hokkaidozenkoji?s=06
善光寺のブログ http://blog.livedoor.jp/zenkojinamu/
※當・善光寺は、檀家さんより、年間、維持費として一萬圓、十夜法要への寄付金として五千圓~をいただいております。
※當・善光寺では、いったん檀家になり、それを辭める場合でも、他の多くの寺院と同樣に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※隨時、御朱印を承っています(要豫約)。
大きな災害や事件等が起こった時には、必ず「陰謀論」や「デマ」が擴散されますね。
そういう「陰謀論」や「デマ」を信じやすい人の特徴として、「自分の直感や認知能力への過信」があると言われています。
「自分が見たから絶對に本當だ」とか「自分はこう思うのだから本當だ」ということですね。
これは、多かれ少なかれ、誰にもあることですが、「自分は間違っているかもしれない」、「自分を信じ過ぎない」、「自分を小さくする」ということが大切なのですね。
私は、日々、檀家さんのお宅に月參りにお伺いしていて、そこのお宅の方々と接しています。
そういう方々は、非常に、謙虚な方が多い、というか、ほぼ、100%、謙虚な方々ばかりです。
そういう、私が接してる「檀家さん」という方々は、何もおじいさんおばあさんばかりではありません。
私のような年齡の方や、もっと若い、小さなお子さんがいらっしゃるような世代の方もいらっしゃいます。
そういう方々は、決して、私に、「ほんとうの佛教とは~」なんて話をしないのですね。
もちろん、經典を讀み、意味を理解することは大切なことです。
しかし、やはり「師」というか「先輩」というか「先達」を持つことは大切なのですね。
決して自分が作り出した、獨りよがりの考え方ではなく、長い時間をかけて、多くの人によって受け繼がれてきた「考え方」を學ぶことが、大切なのでしょうね。
その目的は、やはり、「自分を小さくする」、「自分を信じ過ぎない」「自分の意見を絶對だと思わない」ということだと思います。
私が接している檀家さんは、日々、お佛壇にお水を供え、お佛飯をお供えしています。
そうして、蝋燭を點け、お線香を焚き、みほとけや亡き人に手を合わせています。
その時間は、紛れもなく、「中心」が、あちら側、みほとけや亡き人に移っています。
しかし、我々は凡夫であり、煩惱を抱えていますから、すぐにまた、「中心」が自分に移ってきてしまいます。
そういう私たちにとって、日々、みほとけや亡き人に向かうことは、「中心」を自分から離し、「相手」へと移すトレーニングになっているのではないかと思います。
佛教の入り口は、三歸依です。
みほとけ、教え、教えを信じる集團に歸依することです。そこから、佛法の生活が始まるのです。
歸依というのは、「信じたよる」(『佛教語大辭典』中村元)という意味です。
私たちは、煩惱を持っていますから、どうしても、「自分」が中心になってしまうのです。
知らず知らずのうちに、氣が付くと「自分」を中心にしてしまうのです。
しかし、日々、私たちの外部にある、みほとけや亡き人を禮拜することで、「中心」を相手に渡し、この「自分」を小さくしていくのです。
「自分」を完全に無くすことはできませんが、「自分」を小さくして、みほとけや亡き人を中心に生きていく。
そのことで、人々を敬い、世界を感謝で眺め、至る所に敬意を見出すような、穩やかな人間性を培っていくのでしょうね。
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